2017年12月21日

ドイツ

ドイツの歴史 分裂と統一を繰り返して

by Fish & Tips

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ヨーロッパの中央に位置し、四方に国境を持つ経済大国ドイツ。諸国との軋轢や分断の歴史を経て、現在はEUの先頭を歩んでいる。

ゲルマン民族と神聖ローマ帝国

ドイツでは紀元前1300年頃から古代文明が栄え、紀元前後にはゲルマン系のさまざまな民族が居住していた。彼らは当時大きな勢力を誇った古代ローマ帝国としばしば戦火を交えたが、4世紀後半に中央アジアの遊牧民・フン族がヨーロッパへ侵入したことにより、勢力図は大きく変化する。

フン族から逃れるために移動してきたゲルマン民族によってローマ帝国の国土は荒らされ、勢力が衰えた帝国は東西に分裂。このうちビザンツ帝国(東ローマ帝国)は東ヨーロッパに勢力を保持したが、西ローマ帝国は衰える一方で、476年に滅亡した。

混乱した西ヨーロッパに統一をもたらしたのは、ゲルマン系のフランク王国だった。カトリックを受容しローマ教会の支持を得たフランク王国は勢力を強め、8世紀後半にはカール大帝が西ヨーロッパをほぼ統一し、ローマ教皇から西ローマ皇帝に任じられた。カール大帝の死後、子孫らによってフランク王国は中、西、東の3つの王国に分割された。これらの王国はそれぞれ現在のイタリア、フランス、ドイツの前身である。

東フランク王国では10世紀初めにカール大帝の家系が断絶し、混乱状態となったが、ザクセン家のハインリヒ1世がこれを収束させ、息子の皇帝オットー1世が962年に神聖ローマ帝国を成立させた。神聖ローマ皇帝はカトリック教会の力を利用してドイツに君臨したが、皇帝と教皇の間で聖職者を任命する権限をめぐって対立する「叙任権闘争」が起きるなど、不安定要因も抱えていた。

度重なる対立によって帝国と教会の結びつきは次第に弱まり、皇帝の権力は弱体化した。12世紀末には有力な地方領主(選帝侯)の選挙によって皇帝を選出する慣習が定められ、1356年にはカール4世が「金印勅書」を発布し、選帝侯に裁判高権などの特権を与え、教皇の介入を排除した。こうして教会の影響は弱まったものの、地方領主の力が強まり、国内は約300の諸侯領や自治都市に分裂する。そのような状況のなかで、15世紀以降はオーストリアの領主ハプスブルク家が帝位を世襲するようになる。ハプスブルク家は政略結婚により領土を拡大、1519年に即位したカール5世は神聖ローマ皇帝やスペイン国王など多くの国の君主を兼任し、フランスやイスラム勢力と戦った。

Karl der Große カール大帝 742〜814

在位800〜814年。キリスト教と結びつき、ヨーロッパ初のひとつの統一体を実現させた。統合が進む今日のヨーロッパの歴史的象徴。

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宗教改革と三十年戦争

16世紀初頭、カトリック教会は贖宥状(免罪符)の販売を行なっていたが、これにマルティン・ルターが反発。1517年、ルターはローマ教皇のレオ10世に『九十五箇条の論題』を提起、贖宥状の販売を攻撃し、これが宗教改革の発端となった。多くの諸侯は教皇による搾取に不満を感じており、聖職者と教会の権威を否定するルターの主張に大衆も賛同、各地で宗教改革が起きた。改革は農村にも波及し、領主に対する農民戦争も勃発する。諸侯らは混乱を避けるため、みずからルター派の教会形成へと改革を進めた。これによりルター派の新教プロテスタントとカトリックの対立は決定的となる。

皇帝カール5世はプロテスタントを容認し、諸侯に領地の宗派の選択権を認めた。しかし、宗派対立は収まらず、1618年には三十年戦争が勃発。フランスやスウェーデンなど外国も介入し、ドイツ国土は荒廃した。戦争の終結後は諸侯に国家主権が認められ、神聖ローマ帝国は事実上の統治権を失った。

各地の諸侯のなかで、ドイツ北東部を拠点とするプロイセン王国が勢力を伸ばし、18世紀にはハプスブルク家のオーストリアとの戦争に勝利して、ヨーロッパの強国の一員となった。しかし、隣国フランスで起きたフランス革命に介入しようとして失敗、フランスで権力を掌握したナポレオンの侵攻を受ける。これにプロイセン、オーストリアなどドイツの諸勢力は大敗を喫し、すでに有名無実となっていた神聖ローマ帝国は滅亡。プロイセンの領土も大幅に削減された。

Martin Luther マルティン・ルター 1483〜1546

ザクセンのアイスレーベンで生まれ、エアフルトの大学で学んだあとに修道院に入る。1512年にヴィッテンベルク大学の神学教授となった。

Eisleben, Martin Luther
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ウィーン体制からドイツ帝国へ

ナポレオンによるドイツ支配が始まると、ドイツ人が自覚していなかった民族意識が呼び起こされた。反ナポレオン勢力が結集し、解放への気運が高まる。ドイツ諸連邦はライン同盟から脱退、1813年のライプツィヒの戦いでフランスはプロイセン・ドイツとロシアに破れ、ナポレオンは退位となった。

戦後、発言力を増したオーストリアが戦後処理のためウィーン会議を主宰、国際秩序をフランス革命の前に戻し、大国の勢力均衡を図る復古的なウィーン体制が成立する。1815年に35の君主国とリューベックなど4自由都市、オーストリア、プロセインの一部を含んだドイツ連邦が成立した。

盟主の座は、ハプスブルク家のオーストリアと新興勢力のプロイセンにより争われた。この争いはプロイセンが勝利し、1871年にプロセイン王を頂点とするドイツ帝国が誕生。立役者となったビスマルクが宰相に就任、「アメとムチ政策」で社会主義勢力などの抑圧と労働者の懐柔に努めた。また、強力な指導力のもとで帝国の経済力を上向かせ、政教分離を徹底。軍事増強を行ない、巧みな外交を展開し、「鉄血宰相」と呼ばれた。1888年にヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクは退陣、勢力均衡重視の政策から、海外膨張政策に切り替わる。

ワイマール共和国時代

1914年、第一次世界大戦が勃発するとドイツはオーストリアなどと同盟国となり、ロシア、イギリス、フランスの連合国と対立、国民生活を巻き込む長期戦へと突入した。アメリカも介入するようになり、敗戦が避けられなくなると皇帝は亡命。終戦後に君主制は廃止されて、1919年に議会制民主主義によるワイマール共和国が誕生する。巨額の賠償金やインフレなどの問題を抱えていたが、アメリカを賠償問題の味方につけ、国内経済は安定する。「黄金の20年代」と呼ばれる時期を迎え、大衆文化が花開いた。

2つの世界大戦とヒトラー政権

戦後協調外交を展開するようになったドイツは、フランス、ベルギーと不可侵条約を結び、1926年には国際連盟に加盟した。1929年、アメリカに端を発した世界経済恐慌は、豊かな経済力を持たないドイツに深刻な打撃を与えた。社会不安が増大するなか、ヒトラー率いるナチスが急速に台頭する。ナチスはヴェルサイユ条約破棄、ゲルマン民族至上主義、ユダヤ人排斥を唱えた。商人や手工業者などの中間層を中心に広く支持者を集めたヒトラーは、1933年に首相に就任する。短期間で一党独裁制を樹立して軍備増強し、国際連盟を脱退した。

ドイツは1938年にオーストリアを併合し、翌1939年ソ連と独ソ不可侵条約を結んだ。勢いを増したドイツは、同年9月1日にポーランドに侵攻する。イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。デンマーク、ノルウェー、中立国のオランダ、ベルギー、そしてフランスの北半分を占領したドイツは、1941年にソ連に侵攻する。情勢を見守っていたイタリアも参戦した。

アメリカを中心とする連合国軍が1942年に反撃を開始、ソ連はスターリングラードでドイツ軍を撃破し、以後はソ連軍が優勢となる。ドイツ軍は各地で総崩れとなっていった。1945年にはソ連軍とアメリカ軍が東西からドイツに進撃。ベルリン陥落を前にヒトラーは、結婚したばかりの妻エヴァとともにピストル自殺し、5月7日にドイツ軍は無条件降伏してドイツは敗戦した。ヒトラーの死は、世界に衝撃を与えた。

Adolf Hitler アドルフ・ヒトラー 1889〜1945

オーストリア生まれ。ドイツで第一次世界大戦に従軍後、ナチスに加入。1933年にヒトラー内閣を成立させ、一党独裁政権の指導者となった。

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筆者 : Fish & Tips

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ ドイツ」です。掲載されているデータは、2015年12月〜2016年3月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。 最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。
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