2017年8月12日

タイ

行く前に知りたい!タイの歴史・5つの王朝

by Fish & Tips

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微笑みの国と呼ばれるタイ。首都であるバンコクには、王朝が歩んできた歴史を物語る寺院や建築物が点在する。絢爛豪華な建物や荘厳な仏像は、見る者の心に深い印象を残す。初めて訪れるならもちろん、何度訪れても、歴史を知った分だけ旅行が楽しくなる。

王朝の盛衰と独立国としての歩み

これまで数多くの王家が生まれ、5つの王朝により受け継がれてきたタイ王国。周辺勢力の支配を幾度も経験し、東南アジアきっての経済大国へと成長した。

インドシナ半島に誕生した古代王朝とタイ族【古代〜スコータイ王朝】

中国南方から来たタイ族

タイの国土での人類の歴史は、旧石器時代にさかのぼるとされている。紀元前3000〜2000年頃には、タイ東北部のウドンタニー地方で、東南アジア固有の文明バーン・チエン文化が誕生。このときすでに、稲作文化を持っていたことが知られている。しかし、これらの文明を築いたのは、タイの主要民族のタイ族ではない。タイ族の起源は、中国南部の雲南省周辺といわれている。その起源には諸説あるものの、インドシナ半島よりも北方に分散し、稲作をしながらムアン(共同体)を形成したと考えられている。中国の漢籍史料にはタイ族が西南夷の名で登場しており、今も中国南部には少数民族としてタイ族が暮らす。6〜7世紀頃になると漢民族が中国南部へ勢力を拡大。タイ族は南や西へと移動を始める。

モン族がタイ初の大国を勃興

タイ族が南下・西進を続けていた6世紀頃、タイ領ではバンコク西部のナコンパトムを中心に、タイで最初の大国ドヴァーラヴァティ国が誕生している。東インドから移住してきたオーストロ・アジア語系のモン族が興した国家で、彼らは独自の文字を有し、上座部仏教を信仰。チャオプラヤー川流域の肥沃な大地にタイの農業の礎を築いている。彼らの末裔であるモン族は現在も山岳地帯などに暮らしている。同じ頃、タイ南部のマレー半島では、インドネシアのスマトラ島東部を中心に栄えたシュリーヴィジャヤ国が支配していた。さらにタイ各地には、小規模の国々が存在しており、タイ北部・チャオプラヤー川上流のランプーンには、モン族の小国家・ハリプンチャイ国があり、7世紀頃〜13世紀頃まで栄えたとされている。 9世紀に入ると、カンボジアのクメール帝国(アンコール朝)が台頭し、タイ東北部や東部を支配域に置く。12世紀前半には、クメールの支配はチャオプラヤー川中流域にまで広がり、ドヴァーラヴァティ国はクメール帝国に取り込まれてしまう。

Wat Phra Pathom Chedi temple in Nakhon Pathom Province, Thailand.
by fotolia - © puthithon

ドヴァーラヴァティ国が栄えたナコンパトムの寺院

タイ族の国スコータイの誕生

中国南部から南下を続けたタイ族は、11世紀頃に現在のタイの領土にたどり着く。稲作に適した河川域に暮らし、ムアン(国)を徐々に拡大させていった。13世紀にはクメール帝国を駆逐。1238年、ヨム川流域にタイ族初の王国・スコータイ王朝を確立する。 スコータイ王国はチャオプラヤー川中流に都を置いて農業を発展させる。上座部仏教が広まり、多くの寺院を建設している。3代王ラームカムヘーンの時代には最盛期を迎え、王国の支配域は飛躍的に拡大。現在のラオスやシンガポールを含む巨大王国に発展した。ラームカムヘーン王は、タイ文字を生み出し、国民の声に耳を傾けて、国家の父とあがめられた。当時の碑文に王の功績が記されおり、タイの三大王のひとりとして今も国民に崇拝されている。碑文中にはまた、「水に魚棲み、田に稲穂実り」と王国の豊かな様子が生き生きと描かれている。当時の王国内にはタイ族のムアンが数多く存在しており、王国とそれぞれのムアンとは同盟を結ぶ連合体のような関係にあった。偉大なラームカムヘーン王が死去すると、王国は求心力を失って一気に弱体化し、周辺のムアンは次々と独立。1378年には、ムアンのひとつだったアユタヤーの属国となってしまう。やがて王位継承者を失ったスコータイは1438年、ついに終焉の時を迎え、密林の中で永い眠りに就く。今も数多く残る王国の遺構は、世界遺産に登録されている。

Buddha statue sitting in Sukhotai, Thailand
by fotolia - © kovgabor79

スコータイ時代の王室守護寺院ワット・マハータート

アユタヤー王朝の栄枯盛衰をめぐる時代【アユタヤー王朝】

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アユタヤーには王都の時代の多くの寺院が点在する

超大国アユタヤーの幕開け

アユタヤー王朝の初代王となるウートーン王の出自は、諸説あってはっきりしていない。スコータイの弱体後に勢力を強めたのは、小国のスパンブリー王家とロッブリー王家だった。ウートーンは両家と婚姻関係を結び、2つの王家の威力を利用して連合体国家を築いていく。両国の中間地点にあたるアユタヤーに都を置き、みずからをラーマーティボディ1世と名乗った。アユタヤーの都は、チャオプラヤー川とその支流のロッブリー川、パーサック川に囲まれた島状の地帯に位置し、川の合流する交通の要衝だ。水運を利用して中国や欧州などと海外交易を盛んに行ない、平野を生かした稲作で国の経済は潤った。王は仏教を擁護するとともに、クメール経由で伝わったインドのバラモン教や精霊崇拝にも影響を受けている。国王の存在は神格化され、スコータイ時代の身近な「父王」から「神王」へとその威厳は高められた。ウートーン王が死去すると、スパンブリー家とロッブリー家の両家が王位を奪い合う時代が続く。6代目からはスパンブリー家が王位を独占し、継承争いに終止符を打つ。7代王ボーロマラーチャー2世の時代になると、支配領域はタイ東北部のコラート高原やカンボジアへ拡大。1431年には、衝突の続いていたクメール帝国を平定する。この頃アユタヤー王朝は、東南アジアで最大となる巨大勢力となった。

アユタヤーの属国化と復活

クメール帝国崩壊後、インドシナ半島には新たな勢力が影を落とし始めていた。パガン朝に続いて14世紀にビルマを掌握したタウングー朝だ。2代バインナウン王は、1568年にアユタヤーに攻撃をしかけ、翌年にアユタヤーは陥落してしまう。以降15年間、アユタヤーはビルマの属国となる。 救世主となったのは、アユタヤー王朝の王子ナーレスアンだ。王子はビルマ軍の人質となり、バインナウン王の養子にされたが、その後、地元ピサヌロークへ戻されていた。1581年にバインナウン王が死去し、ビルマが弱体化したと見てとると、ナーレスアンはビルマを攻撃。アユタヤー王朝を復活させた。この時期を転換点として、アユタヤーの誕生から復活前までを「前期アユタヤー」、復活後を「後期アユタヤー」と呼ぶ。ナーレスアンは1590年にアユタヤーの21代王を継承してアユタヤーを繁栄に導いた。タイ族の国を再興した偉大な功績者として、タイ三大王のひとりにその名を連ねている。

国際都市アユタヤーの繁栄

15〜17世紀に、世界は大航海時代を迎えた。王都・アユタヤーも東西交易の中継地として発展。王朝は最盛期を迎える。チャオプラヤー川をポルトガルや中国、ベトナムの船が往来し、多くの外国人が居住する国際都市となり、日本人町も生まれている。朱印船貿易で日本人町にいた沼津出身の山田長政は、24代ソンタム王により官吏に登用され、商業・軍事の両面で活躍したとされる。ソンタム王の死後は継承争いが続き、抗争の末、重臣のプラサートーンが王位に就く。新王は地方領主の世襲制を禁止するなどして中央集権化を強め、自身の地位固めを行なった。その跡を継いだ27代ナーラーイ王は、海外交易強化のために西洋諸国との通商条約の締結を画策。ところが、東南アジア交易の覇権を狙う大国フランスは、交易特権などの一方的な条件を提示する。国王が大国の圧力に苦慮するなか、国内の反フランス勢力がクーデターを決行。国王を追放してしまう。首謀者の象隊長・ペートラーチャが1688年に王位に就き、アユタヤー朝最後の王家・バーンプルールアン家を誕生させる。17世紀末になると、西欧諸国との海外交易は低迷し、大国からの圧力はしだいに弱まっていく。

安定の時代から王朝崩壊へ

第30代ターイサ王、続くボーロマコート王の時代、アユタヤーは平和な安定期を迎える。海外へのコメの輸出が始まり、中国系商人が台頭し始める。内部抗争の続いていたカンボジアを侵攻し、アユタヤーの属国とした。衰退した仏教も復活させた。1758年にボーロマコート王が死去すると、2人の王子の王位争いから国内は再び不安定となり、王朝の求心力は急降下する。その頃、勢力を強めていたのが1752年にビルマで興ったコンバウン朝だ。弱体化したアユタヤーを一気に攻めて、ついに1767年4月にアユタヤーは陥落。今度は属国化ではなく王位も剥奪され、アユタヤー朝は完全に崩壊してしまう。5王家で400年以上続いた王朝の長い歴史がついに幕を下ろした。

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ビルマ軍の攻撃の跡がアユタヤー各地に残されている

北部のもうひとつの“タイ王国”

チャオプラヤー川中流にタイ族最初の王朝・スコータイが誕生した頃、タイ北部のヨム川流域では、もうひとつのタイ族の国が産声を上げていた。チェンライを治めるタイ族のマンラーイ王が、モン族の国家ハリプンチャイを攻略して併合。1296年にランナー王国を打ち立てた。新都となったチェンマイには、14世紀に上座部仏教が広まり、仏教文化が大いに花開く。街では今も、王国時代の寺院を数多く見ることができる。15世紀には繁栄を極め、現在のタイ北部のほとんどを手中に収めている。1558年にビルマのタウングー朝に倒れ、約200年間、ビルマの統治下に置かれたが、トンブリー朝のタークシン王に従属して、1774年にビルマを追放する。チャクリー朝時代にも従属関係は続き、ラーマ5世のときにタイのパーヤップ州に統合。600年間栄えたランナー朝は、シャム王国内に編入された。

Wat Phra That Doi Suthep, famous public temple at Chiang Mai, Thailand
by fotolia - © Aungsumol

14世紀にクーナ王が建てたドーイ・ステープ寺院

ラッタナーコーシン王朝の近代化政策と西欧列強【ラッタナーコーシン王朝】

ビルマから復帰し現王朝が誕生

アユタヤー崩壊から約半年後、アユタヤー朝の将軍だった中国系のタークシンがビルマ軍を撃退する。破壊されたアユタヤーを捨て、トンブリー(バンコク西岸)に新都を建設。1768年にトンブリー王に即位した。河口に近いトンブリーは、アユタヤーよりも優位な貿易の拠点だった。タークシン王はかつての領土を次々に取り戻す活躍を見せたが、晩年は精神に異常をきたしたとされる。1782年、王に要職を解かれていた旧アユタヤー朝貴族勢力のクーデターに遭い処刑される。トンブリー王朝は15年の短命に終わった。タークシン王を引き継いだのはタークシン配下のチャオプラヤー・チャクリー(ラーマ1世)だった。アユタヤー王朝に代々仕えた名門貴族の家柄で、旧勢力の支持を得て1782年に王位を継承。現王朝のラッタナーコーシン(チャクリー)王朝を成立させる。ラーマ1世は都をトンブリーから対岸のバンコクに遷都。アユタヤー王朝を模範とし、大都の建設に着手する。王室儀礼を復活させ、仏教を復興。広大な王宮内には、アユタヤー同様に王宮寺院ワット・プラケーオを創建した。デルタに運河を築き、広大な稲作地帯を開墾する。王国の支配領域をタークシン時代よりもさらに拡大させた。対中交易を奨励したため、街には膨大な数の中国商人が流入した。 ラーマ2世、3世の時代にはラッタナーコーシン王朝の伝統文化が花開く。2世は芸術に造詣が深く、3世は芸術に加え仏教の信仰心が篤く、多くの寺院の建造や修復を行なった。今日見られるバンコクの歴史的風景のほとんどは、2〜3世が君臨した19世紀前半に生み出されものだ。

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現王朝の繁栄を象徴するワット・プラケーオの輝き

植民地化から逃れ「緩衝国」へ

19世紀の産業革命以降、西洋諸国は工業製品の販路を求めて東南アジアに再び触手を伸ばす。大国の圧力を前に、ラーマ4世(モンクット王)は1855年、不平等条約であるバウリング条約をイギリスと締結。ほかの列強国とも同様の条約を結び、ついに開国し、国名は正式に「シャム」となった。インドシナ半島では英仏の領土争いが激化。イギリスはタイの西のビルマを、フランスは東のベトナム、カンボジア、ラオスを植民地にする。両国は衝突を避けるため、1896年に英仏宣言を締結。両国支配地の中間に位置するタイを緩衝地帯に定めた。「緩衝国」となったタイは、その後も東南アジアで唯一、植民地化を免れることとなった。

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ワット・プラケーオ内にあるアンコール・ワットの模型

チュラロンコーンの近代改革

1868年に即位したチュラロンコーン王(ラーマ5世)は、西洋文化にも精通する博学者として知られる。大胆な改革を行ない、タイを近代化に導いていった。全国に州を設置して中央から州知事を派遣し、中央集権体制を確立。有能な人材育成のため教育に力を入れ、王立学校や庶民向けの学校を整備する。外国人専門家を積極的に登用し、司法や農業、軍事など多分野でその知識を活用した。交通網も整備され、タイ初の鉄道が開通する。国王の近代化政策は、文明国となって西洋諸国と対等の立場を得るためのステップでもあった。その後もタイが植民地化を逃れた背景には、ラーマ5世の近代化への努力が根底にある。「近代化の父」、「タイ三大王」にラーマ5世が名を残す所以だ。

絶対王政から立憲君主制へ

第一次世界大戦が勃発すると、ワチラーウット王(ラーマ6世)はタイの中立を宣言。しばらく戦局をうかがった。1917年にアメリカが参戦すると、有利と見た連合国側に加わり参戦。見事に戦勝国の座を勝ち取り、その立場を利用し英仏との不平等条約を改正させる。ただし改正には、メコン川右岸など一部領土を割譲する交換条件をともなった。 プラチャーティポック王(ラーマ7世)の時代に入ると、ラーマ6世時代の浪費のつけと世界恐慌が重なり国の財政は悪化。国内の不満の矛先は絶対王政へ向けられた。国外では、パリ滞在中のタイ人官費留学生らが民主化をめざして秘密結社・人民党を1927年に結成していた。人民党は軍部と結託し、1932年6月24日にクーデターに成功(立憲革命)。立憲君主制国家が生まれ、タイの絶対王政の時代は終わりを告げる。人民党のプラヤー・マノー・パコーンが初代首相となったが、党内分裂を起こして交代。1938年からは軍人・ピブーンソンクラーム(ピブーン)が第3代首相の座に就いた。ピブーンはナショナリズム政策を推し進め、タイ語を国語に定めて、国名はシャムから「タイ人の国」を意味する「タイ」へ変更。華僑への同化政策も行なった。王室の将来を悲観したラーマ7世は退位を表明。1935年に新王となったアナンタマヒドン王子(ラーマ8世)は、当時10歳と幼少だったため滞在中のスイスにとどまった。

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フランスとの領土紛争の犠牲者を慰霊する戦勝記念塔

敗戦国を免れた巧みな外交政策

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、タイは第一次大戦の際と同様に中立を保って戦況を静観する。ピブーンは、この戦争を機に、かつての広大な領土の回復をめざしていた。フランスがドイツに敗退すると、メコン川右岸地域をフランスから取り戻す。インドシナの覇権を狙う日英仏と一定の距離を保っていたピブーンだが、日本のタイ侵攻の危機が強まったため日本と同盟条約を締結。1942年、日本と敵対する連合国軍へ宣戦布告し、第二次大戦への参戦を決める。その3年後に日本は敗戦。戦後処理が始まると、敗戦国の立場を回避したいタイは、「宣戦布告は日本の圧力下での行為」であると訴える。さらに、宣戦布告に必要な署名が1人欠けていることを理由に「宣戦布告の無効」を宣言。戦時下に英仏に留学中のタイ人学生が組織した抗日派組織「自由タイ」の活動も認められ、敗戦国の立場を免れた。ただし、フランスから回復した失地を再び失うという代償をともなっていた。

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筆者 : Fish & Tips

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ バンコク」です。掲載している情報は、2016年3〜8月にかけての取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。
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