2017年12月5日

オーストリア

オーストリア「ハプスブルク家」の黄金の歴史

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スイスの弱小貴族から絶大な権力を持つ皇帝となり、やがて凋落を迎えるまで、名門一族が歩んだ壮大なる栄枯盛衰の軌跡をたどる。

日没なき世界帝国を築きあげたハプスブルク家の黎明

戦わずして領地を広げる巧妙な外交戦略で、広大な領土を支配する帝国へ

ローマ時代のウィーン

ウィーンの歴史は紀元前にさかのぼる。もとはケルト人が居住していたこの地を、紀元前15年にローマ帝国が編入。北方のゲルマン人からローマを守る防衛拠点として位置づけ、紀元100年頃には軍事基地ヴィンドボナが築かれた。ローマ帝国による支配は約500年にわたって続き、その形跡は現在もウィーン中心部で数多く目にすることができる。王宮のミヒャエル門前やホーアー・マルクトなどにローマ遺跡が残されているほか、旧市街の主要な道路もローマ時代に造られたものが少なくない。

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ミヒャエル門前のローマ遺跡。美しいレンガや石積みが建設当時のまま残されている

バーベンベルク家の統治

ローマ帝国が弱体化したのち、現在のオーストリアの地を支配したのはフランク王国である。8世紀末、カール大帝はこの地にオストマルク(東方辺境伯領)を置き、異民族の侵攻に備えた。9世紀にフランク王国は西・中・東の3つに分裂。東フランク王国は962年に神聖ローマ帝国となり、オットー1世が初代皇帝の座に就いた。976年、オットー2世によりバイエルン貴族のバーベンベルク家が東方辺境伯に封ぜられ、以後270年、バーベンベルク家の支配が続く。

その所領はエスターライヒ(東の国)と呼ばれ、当時はまだ東の果てであった。しかし、バーベンベルク家のもとで商業や文化が発展し、しだいに存在感を増していった。

ドイツ国王・ルドルフ1世

1246年、異民族との戦いで敗北したバーベンベルク家は断絶。その後、東方領地をめぐる紛争が続くなか、ボヘミアのオトカル2世が支配権を握り、絶大な力を誇示していた。この間、神聖ローマ帝国は急速に力を弱め、実質的な皇帝が不在の大空位時代が20年近く続いていた。

1273年、混乱した状況下でドイツ国王(神聖ローマ帝国皇帝)に選出されたのが、ハプスブルク家の当主ルドルフ1世である。これは彼の実力によるものではなく、選帝侯たちが弱小貴族のルドルフ1世を飾り物の国王に担ぎ上げ、意のままに操ろうともくろんだ結果であった。ところが、選帝侯たちの思惑に反して、ルドルフ1世は並々ならぬ実力を発揮。ウィーンを占拠していたオトカル2世を破り、バーベンベルク家の所領であったオーストリアの地を手に入れた。ここに、ハプスブルク家の華麗なるオーストリア統治の歴史が幕を開けた。

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ハプスブルク家の始祖といわれるルドルフ1世

「日没なき帝国」の誕生

ルドルフ1世の時代ののち、神聖ローマ帝国皇帝の座は一時的に他家に奪われた。しかし、フリードリヒ3世が再び皇帝に返り咲いて以降、ハプスブルク家が皇帝位を独占し、その地位を揺るぎないものとする。

マクシミリアン1世の時代からは他王家との政略結婚を積極的に進め、戦わずして領地を拡大するハプスブルク家のお家芸を展開することとなる。みずからはブルゴーニュ公女マリアと結婚し、息子のフィリップ1世はスペイン王女ファナと、孫のフェルディナント1世はボヘミア・ハンガリーの王女アンナと結婚させ、スペインやハンガリーにまで及ぶ広大な領地を手中に収めた。さらに、マクシミリアン1世の孫カール5世の治世には、ヨーロッパの大半のみならずスペインの植民地であった中南米までをも統治し、「日没なき帝国」として世界に君臨する。

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カール5世。彼の治世にハプスブルク家の勢力は不動のものとなった

ハプスブルク家分裂から、繁栄を極めた女帝の時代まで

諸問題に揺れる動乱の時代を経て、偉大なる女帝のもとで帝国は最盛期を迎える

領土と宗教をめぐる争い

支配領土のあまりの広さに限界を覚えたカール5世は、弟のフェルディナント1世にオーストリア統治を委任。これにより、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分裂することとなる。

一方、16世紀に始まった宗教改革を発端に、カトリックとプロテスタントの対立が激化。そこへ周辺諸国が次々と介入し、ヨーロッパ中を巻き込む三十年戦争へと発展した。この戦いは、表面的には宗教戦争の様相を呈しつつも、実際は各国が領土拡大を画策する覇権争いであった。終戦後、ハプスブルク家は勢力を大きく失い、神聖ローマ帝国は形骸化。さらにはオスマン・トルコの襲撃、スペイン・ハプスブルク家断絶にともなうスペイン継承戦争など、動乱の時代が続いた。

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オスマン・トルコを撃退するなど多くの戦いで活躍した英雄オイゲン公

マリア・テレジアの時代

戦争で荒廃した国を建て直し、再びハプスブルク家の威信を取り戻したのがカール6世である。彼には男の世継ぎがいなかったため、長子相続を定めた国事詔書を生前に発布していた。しかし、彼の急死を受けて長女マリア・テレジアが即位すると、23歳の若き女帝の誕生に周辺諸国は激しく反発。プロイセンのフリードリヒ2世が領土侵略を開始すると周辺諸国もこれに便乗し、オーストリア継承戦争が始まった。重大な危機を迎えたマリア・テレジアは、決死の覚悟でハンガリー議会に乗り込み、堂々たる姿で援軍を要請。その美しく勇敢な姿でハンガリー貴族を魅了し、味方につけることに成功したが、プロイセンに奪われたシュレージエンを取り戻すことはできなかった。そこで彼女は、フランスやロシアと結んでプロイセンに対する復讐戦を開始。長年敵対していたフランスのブルボン家とハプスブルク家の同盟はヨーロッパ中を驚かせた。戦いは7年に及んだが、念願のシュレージエン奪還には失敗。しかし、これらの戦いを通してマリア・テレジアは女帝としての権力を誇示し、その名声は広く轟くこととなる。

戦争に明け暮れる一方、彼女は国家の整備にも力を注いだ。陸軍養成所を創設して軍隊を強化したほか、小学校を設立して義務教育制度を定め、病院や貧民院の設立により国民生活を向上させた。さらに、官僚制度の確立、国勢調査による税収確保などを行なって中央集権化を進め、近代国家の礎を築いた。

こうしたマリア・テレジアの精力的な活躍の背後には、夫フランツ1世の存在があった。政治は妻に任せきりだったが、卓越した蓄財の才能により戦争で逼迫したハプスブルク家の財政を再建し、内助の功で妻を支えた。夫婦仲はたいへん良好だったといわれ、マリア・テレジアは20年間で16人の子供を出産。度重なる戦争や政治の激務をこなしながら、大勢の子供たちを育てた。

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ハプスブルク家唯一の女帝マリア・テレジア。近代国家の整備に尽力した聡明な国母として名高い

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マリア・テレジアが改築したシェーンブルン宮殿。マリー・アントワネットもここで幼少期を過ごした

神聖ローマ帝国の終焉、オーストリア帝国の成立

近代化の波と民族独立の動きに翻弄され、衰退の一途をたどった帝国の憂い

フランス革命の余波

17世紀末にヨーロッパで生まれた啓蒙思想は、絶対君主制のもとで苦しんでいた民衆を蜂起へと駆り立て、1789年にフランス革命が勃発する。フランス国王一家は国外に逃亡を企てるも失敗し、マリア・テレジアの末娘でルイ16世の王妃マリー・アントワネットは断頭台の露と消えた。

この革命は周辺諸国に大きな衝撃を与え、革命の波及を恐れたオーストリアがプロイセンと組んでフランスに干渉。これに反発したフランスがオーストリアに宣戦布告し、1792年にフランス革命戦争へと突入した。翌年にはイギリスを中心としてヨーロッパ各国が大同盟を結びフランスに対抗。一時は同盟側が戦局を優位に運んだが、やがてナポレオンの登場により形勢は逆転の方向へ動き始める。

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革命の渦のなかで処刑された悲劇の王妃マリー・アントワネット

対ナポレオン戦争

ナポレオンの出現によって、フランス革命戦争はフランスによる侵略戦争へと変貌。彼は破竹の勢いでオーストリア・ロシア連合軍を撃破し、ドイツ諸邦にみずからを盟主とするライン同盟を結成した。これにより神聖ローマ帝国は完全に消滅し、ハプスブルク家の君主はオーストリア皇帝の座に甘んじることとなった。一時はヨーロッパを征服するかに見えたナポレオンだが、イギリスに対する大陸封鎖やモスクワ遠征に失敗。エルバ島に流刑となり、その後脱出するも再び破れ、流されて没した。

フランス革命と対ナポレオン戦争で混乱したヨーロッパの秩序を回復するため、ウィーン会議が開催された。しかし、各国の利害が交錯して会議はなかなか進捗をみせず、舞踏会に時間を費やすばかりであった。「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたが、オーストリアの外相メッテルニヒ主導のもと、フランス革命以前の絶対王政を復活させるウィーン体制が成立。時代はいったん保守体制に逆戻りする。

1848年革命

1848年、ウィーン体制下で抑圧されていた自由主義と民族主義運動は、折からの不況や食糧難に対する民衆の不満とあいまって、激しい革命の嵐となりヨーロッパ中に吹き荒れた。パリで二月革命が起こると、ウィーンやベルリンの三月革命へと連鎖。ウィーンではデモ隊と軍隊が衝突し、保守反動体制の象徴だったメッテルニヒはイギリスに亡命した。プラハ、ブダペストでもオーストリアからの独立を叫ぶ運動が激化し、ウィーン体制は崩壊。混乱のなかで即位したフランツ・ヨーゼフ1世は、弱冠18歳にして諸民族の独立運動を沈静化するという難しい課題への対応を迫られた。

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1866年のケーニヒグラーツの戦い。オーストリア軍はプロイセン軍に決定的な敗北を喫した

普墺戦争、第一次大戦の果てに

フランツ・ヨーゼフ1世の68年に及ぶ在位期間は、苦難の連続であった。ドイツ統一をめぐって勃発した普墺戦争はわずか7週間でプロイセンが圧勝し、オーストリアはドイツ統一における影響力を失った。翌年にはハンガリー人の要求に妥協し、オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立。その後、息子ルドルフの情死、妻エリザベートの暗殺などの悲劇が続き、1914年には甥で皇位継承者だったフランツ・フェルディナントがサラエボで暗殺される。オーストリアはサラエボに宣戦布告し、これをきっかけに第一次世界大戦へと発展。世界中を巻き込んだ戦乱の末、オーストリア・ハンガリー二重帝国は解体され、ルドルフ1世以来、645年にわたって続いてきたハプスブルク家の支配はついに幕を閉じた。

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筆者 : Fish & Tips

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