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Egon Schiele, by Raxenne, CC BY

まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

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ウィーンで生まれた19世紀末アートは幻想的な美しさ! 

19世紀末、ハプスブルク帝国が凋落していく予感のなか、グスタフ・クリムト率いる若き芸術家たちは、真の芸術を求めて20世紀へと向かっていった。この時代に生まれた、幻想的かつ退廃的な美しさを放つ世紀末アートの世界にふれてみたい。

グスタフ・クリムト (Gustav Klimt) 1862〜1918年

官能と退廃の世界を装飾性豊かに表現

世紀末芸術の旗手クリムトは、1862年ウィーン郊外で誕生した。工芸学校を卒業後、弟エルンスト、友人フランツ・マッチュとともに「芸術家商会」を設立。早くから絵画職人として活躍し、ブルク劇場の天井画を制作した。この功績が認められ一躍有名になる。1897年に分離派を結成。派閥内の対立を経て1905年に分離派を脱退したのち、オーストリア芸術家連盟を結成し、『ダナエ』『接吻』などの作品でクリムト芸術は極致に到達する。1918年に永眠。

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画家 Episode

女性の官能美を主題に掲げたクリムトは、『ユディットⅠ』などの甘美で退廃的なエロスを表現した傑作を発表。つねに多くの愛人を持ちながらも一生独身で過ごした。

接吻 (Der Kuss)

ベルヴェデーレ宮殿上宮

1907〜08年

クリムトの最高傑作。特徴的な金箔の衣装と、セクシュアリティの官能的表現は、当時キリスト教の道徳観に抑圧されていた民衆に熱狂的に支持された。モデルはクリムト本人と、恋人エミーリエ。

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Il bacio, by bleucerise, CC BY-ND

【ここに注目!】

2人のいる場所が愛の行方を暗示

耽美な愛に包まれて恍惚とした表情を見せる女性。2人の足元には華やかな花園が見えるが、その先には断崖が続き、男女の愛に対する儚さや危うさを予感させる。

画家を特徴づける黄金と象徴世界

たっぷりと金箔が使われた本作は、クリムトの絶頂期に描かれた。2人の衣装の四角い模様は男性を、丸や花模様は女性を象徴しているところに着目したい。

水蛇 Ⅰ (Wasserschlangen I)

ベルヴェデーレ宮殿上宮

1904〜07年

水中の女性の官能美は、クリムトの好んだ画題のひとつだった。水中にゆらめく2人の女性の髪や水草、からみ合うような水蛇など、退廃的なエロスが満載の佳作だ。

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ユディットⅠ (Judith I)

ベルヴェデーレ宮殿上宮

1901年

敵を倒す聖書のヒロインを描いた、クリムトの代表作。ユディットの雄姿よりも、官能に打ち震えるような表情を前面に押し出し、そのエロスと死のモチーフは、当時の観衆を驚愕させた。

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23. KLIMT. Judith I, 1901, by Imágenes por Temas, CC BY-ND

【ここに注目!】

祖国を救った妖艶な姿の美女

美しき未亡人ユディットは、祖国への侵攻をもくろむ敵の司令官を誘惑して殺害。左脇にその男の生首を抱えている。

エゴン・シーレ (Egon Schiele) 1890〜1918年

人間の内面を強烈に描写した夭折の奇才

ドナウ河畔の田舎町トゥルンに生まれた。画家として早熟だったシーレは、弱冠16歳にしてウィーン美術アカデミーに入学を認められるが、アカデミックな気風と肌が合わなかった。翌年クリムトに見いだされるが、社会的にはその自由で直接過ぎる裸体表現がしばしば不道徳とされ、1912年には投獄や作品の焼却処分などの憂き目に遭う。失意と挫折のなか、徹底的な自己観察と赤裸々な心の表現を自画像などに託して創作活動を続け、ついに1918年、分離派展で高い評価を獲得したものの、同年身重の妻エディットとともにスペイン風邪に冒され、28歳という若さで他界した。シーレとその作品は、世紀末の最後の輝きを現在まで伝えている。

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画家 Episode

少女の裸体画を描き、露骨な性表現で誤解や批判を招くことも多かった。猥褻な絵画と見なされ、焼却処分を受けたことも。

死と少女 (Der Tod und die Frau)

ベルヴェデーレ宮殿上宮

1915〜16年

シーレと思われる死神に、すがりつく少女のモデルは恋人ヴァリーだといわれる。この年、シーレは恋愛のもつれから恋人ヴァリーと別れていた。

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ほおずきの実のある自画像 (Selbstporträt mit Lampionfrüchten)

レオポルト美術館

1907〜08年

短い生涯のうちで描いた100点余りの自画像のなかで、おそらく最も有名な作品。鋭いタッチと角ばった輪郭、色彩の誇張にシーレの特徴がよく表れている。また、鑑賞者を見下すような視線に、画家の自尊心が見てとれる。

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Egon Schiele, by Raxenne, CC BY

四本の樹木 (Vier Bäume)

ベルヴェデーレ宮殿上宮

1917年

「あらゆるものは、生きながら死んでいる。」と美術評論家アルトゥール・レスラー宛の書簡に書いたシーレ(『エゴン・シーレ 魂の裸像』黒井千次編/二玄社)。この4本に見える樹々はどこかシーレが描く裸体像に似ていないだろうか。彼は樹を対象に多くの作品を残している。

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オスカー・ココシュカ (Oskar Kokoschka) 1886〜1980年

「一流の野蛮人」といわれた奔放な作風

ドナウのピッヘラルンで誕生。ウィーン工芸学校卒業後、クリムトに見いだされウィーン工房で働き始める。1906年頃から表現主義を模索し、肖像画、寓意画、風景画などを制作。暗い色調や強烈なコントラストを駆使して独特のスタイルを確立し、芸術総合展「クンストシャウ」で名声を得る。戯曲やポスター絵画なども手がけた。

画家 Episode

作曲家マーラーの未亡人アルマと恋愛関係を持ち、自作『風の花嫁』で自身とアルマを描いた。破局後、傷心のココシュカは、アルマの等身大の人形を持ち歩いていたとの逸話が残る。

ピエタ (Pieta)

レオポルト美術館

1909年

表題は「悲哀」という意味で、キリストの遺体を胸に抱き、嘆き悲しむ聖母マリアを描いた作品。表現主義的特徴がよく表れたポスター絵画だ。

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Pieta, poster, by MCAD Library, CC BY

こちらも必見です

天井画や壁画にもクリムトの名作を発見!

美術学校を卒業後、クリムトは家計を助けるために室内装飾画の仕事を始め、ブルク劇場や美術史博物館の壁画で高い評価を得た。それら初期の写実的な歴史画から、クリムトらしい象徴主義的なものまで、さまざまな壁画が残されている。

ベートーヴェン・フリーズ (Der Beethovenfries)

分離派会館

1902年

『交響曲第9番』を題材に絵画化。「幸福への憧れ」「敵対する勢力」「歓喜・接吻」の3場面からなる大作。ベートーヴェンを讃えた第14回分離派展に出展され、装飾性に満ちた豊かな表現への到達をみせた。

【ここに注目!】

人間の心を蝕むあらゆる敵たち

本作「敵対する力」は第九の第2楽章を描いた。神話の怪物と女性たちが、人間の敵である病や死、快楽、不節操などを象徴。

スキャンダルを生んだ大作

クリムトがベートーヴェンへの賛辞を表した大作だったが、「偉大な作曲家を冒涜する作品」と批判を受けることに。

パラス・アテネ 古代ギリシャ (Pallas Athene)

美術史博物館

1891年に開館した美術史博物館の中央階段には美術史の変遷を表す40点の壁画が見られるが、クリムトはパラス・アテネなど11作品を描いている。

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【ここに注目!】

各国美術の黄金時代を表現

三角小間を飾る一連の壁画はギリシャ、ルネサンスなど美術史の各時代がテーマ。壁画は階段踊り場を振り返ると見える。

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