2017年9月25日

香港

香港の歴史を学ぶ イギリス統治時代から現在まで

by Fish & Tips

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Hong Kong, by barnyz, CC BY-NC-ND

香港は、中国大陸のなかで約150年間イギリスの統治下にあった。その数奇な歩みを知れば、街の混沌がより興味深いものになるはず。

アヘン戦争勃発前

香港の歴史というと、アヘン戦争から語られることが多いが、当然のことながら、それ以前にも人々の営みはあった。ランタオ島やラマ島からは新石器時代の遺跡が出土しており、この頃からこの地に人類が住んでいたと推定される。

秦代には始皇帝が珠江下流域を支配下に置き、香港は南海郡番禺県の管轄となった。その後、南越国が領有したが、南越国は紀元前111年に漢の武帝に滅ぼされ、以降、香港も漢の支配下に入った。唐代になると広州が南海貿易の交易港として発展。それにともなって新界に兵士の駐屯地として屯門軍鎮が設置された。宋の時代には、北方民族の南下にともない、漢民族も北部から南部へと移動し、香港にも流入した。これが香港の客家の起源で、新界原居民といわれる。

清代になると、前代の明の復興を画策する抵抗勢力が中国沿岸を荒らしまわった。清ではそれに対抗するために、福建や広東の住民を内地へ強制移住させる。香港があった新安県は撤廃され、一時的に荒廃した。7年後に撤廃が解除されたとき、清は広東省北部や福建省に暮らしていた客家を開拓民として香港へ移住させた。

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元朗にある屏山文物徑。1100年頃に鄭一族が移住してきて形成された客家の集落が、今も残されている

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錦田吉慶囲は1470年頃に形成された集落

イギリス統治の始まり

清は17〜18世紀の康煕、雍正、乾隆の3帝のときに最盛期を迎えたが、19世紀に入ると国力が衰え始めた。そんな時代に勃発したのがアヘン戦争だ。

当時、イギリスは中国から大量の茶、絹、陶磁器を輸入していたが、中国へ輸出するものがなく、対中貿易はつねに赤字だった。これを打開するためイギリスはインドで生産したアヘンを輸出。中国人はアヘンのとりことなり、イギリスの対中貿易は黒字になった。

一方、中国は多額の貿易赤字を出し、さらに、アヘンにより人心も荒廃した。そこで、清朝政府はアヘン輸入を禁止するが、密輸はなくならない。1839年、全権大使の林則徐は、イギリス商人から2万箱余りのアヘンを提出させ、これを焼き捨てたばかりか、中英の貿易も停止してしまった。

翌1840年、イギリスは艦隊を差し向ける。これがアヘン戦争の始まりだ。結局、中国は敗れ、1842年に南京条約が締結された。この条約により香港島はイギリスに割譲された。ちなみに、開戦に大きな役割を果たしたのが、アヘン密輸で富を得ていた貿易商のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンだ。彼らは開戦ばかりか、勝利の際には香港を領有するようにとの進言もしていたという。彼らが設立したジャーディン・マセソン商会は、その後の貿易で巨万の富を得た。

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アヘン倉庫。イギリスの東インド会社によって、大量のアヘンが中国にもたらされた

イギリス統治区域の拡大

イギリスは南京条約の締結前に、すでに香港島の上環に上陸し、植民地支配のための建設を着々と進めた。ちなみに、現在のハリウッド・パークが最初の占領地であり、公園の脇の道にはポゼッション(=占領)ストリートという英語名がつけられている。

街が築かれたのは香港島北岸で、もともと住民があまりいない地域だった。中心となったのは中環(セントラル)。役所やオフィス、イギリス軍の駐屯地が置かれた。一方、1850年代には太平天国の乱を逃れてきた中国人が多数香港に流入。上環には中国人街が形成された。

そんななかで、1856年にアロー号事件が勃発する。英国人船長が乗った船と中国側の単なる小競り合いだったが、同時期に広西でフランス人宣教師が殺害される事件も発生。中国への干渉の機会を狙っていた英仏が連合し、軍隊を派遣した。1858年にはいったん天津条約が結ばれるが、清がこれを拒んだため、英仏軍は北京に入城した。この結果、1860年に北京条約が結ばれ、九龍半島南部がイギリスに割譲された。

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1846年に建造のマレー・ハウス。英軍将校の住宅

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1847年建造の文武廟は香港最古の道教寺院

イギリス統治下での発展

イギリスの統治が始まると、アヘン戦争前から香港を拠点にしていたジャーディン・マセソン商会をはじめ、イギリス系の貿易商社が次々と移ってきた。貿易港として活気にあふれる香港には、職を求めて中国人のほか、インド人なども移り住んだ。

イギリスの植民地となった香港では、イギリス人が優遇され、彼らが暮らしやすいよう住居や文化施設、教育機関、宗教施設、病院、交通網などが整えられていった。1865年にはイギリス資本の香港上海銀行が、1870年には香港初の官立病院である東華病院も設立された。1888年には香港島と九龍半島を結ぶフェリーと、中環と欧米人専用住宅街を結ぶピーク・トラムが運行を開始。経済の発展に大きく寄与した。

この間、清朝は1884年の清仏戦争、1894年の日清戦争と立て続けに敗北し、列強の圧力は日増しに強くなるばかりだった。日本への三国干渉で恩を売ったドイツ、フランス、ロシアが清朝に過大な要求を突きつける一方、イギリスも強硬に出て、1898年には香港境界拡張専門協約を締結。これにより、新界もイギリスに租借され、このときに租借期限が99年間と決められた。

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もとはイギリス軍駐屯地。1846年にハッピー・ヴァレー競馬場が開設された

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1849年創建のセント・ジョンズ大聖堂は香港で2番目に古い建物

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欧米人の住宅街への交通手段として1888年に開業したピーク・トラム。現在は観光路線として人気

辛亥革命と香港

20世紀初頭の香港は華南貿易の中心地として発展を遂げた。それにともない、交通網もいちだんと整備される。1888年に運行を開始したフェリーは、1898年にはイギリス系のスター・フェリーに経営が移り、路線を拡大。1904年に香港島北部を走る路面電車である香港トラムが、1910年には九龍と広州を結ぶ九広鉄路も開通した。

香港の発展の一方で、清朝の命運は尽きかけていた。打倒清朝を掲げる知識人や革命家が現れ、香港を拠点に活動するようになる。広東省出身の孫文は香港大学の前身である西医書院で学んだあと、革命運動に飛び込んだ。1895年には辛亥革命の発端である広州起義が、香港を拠点とする孫文ら興中会のメンバーで実行された。

1911年に辛亥革命が起こり、清朝は滅亡した。しかし国情は安定せず、ほどなく政権は分裂状態に。蒋介石が率いる南京国民政府は、イギリスとの間で取り交わされた不平等条約の撤廃に動くが、実を結ばなかった。そのような状況下で日中戦争が勃発し、香港にも戦火が及ぶことになった。

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1912年建造の立法会大楼。植民地時代のシンボル的建物

孫文 (スンウェン)1866〜1925

広東省出身。医学を学びつつ、革命思想に目覚め、清朝打倒を志す。1911年の辛亥革命のあと、中華民国の臨時大総統に就任。香港では孫中山の呼称が一般的。

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第二次世界大戦・日本占領時代

日中戦争以降、香港は蒋介石の南京国民政府と諸外国の関係をつなぐ重要な中継基地としての役割を果たしていた。1941年12月8日、日本軍は香港への侵略を開始。最初の攻撃は、イギリスの軍用空港であった啓徳空港に対して行なわれた。激戦の末、イギリス軍が降伏。以来約3年8カ月、香港は日本の支配下に置かれることになった。

日本軍は徹底的な反イギリス政策をとり、英語を使用禁止にして、道路名を日本名に改めさせるなど日本語使用を奨励。さらに香港ドルを廃止し、軍票を乱発したため、深刻なインフレに陥った。香港の経済は停滞し、食料や燃料も不足。街は荒廃し、多くの中国人が中国本土へと逃げ出してしまった。

1945年8月15日、太平洋戦争が終結。戦勝国となった中華民国は香港の返還を求めたが、イギリスは聞き入れず香港に上陸した。その後、中国では国民党と共産党の内戦が激化し、香港の問題はしばし棚上げされた。国共内戦中には、中国大陸から香港へ大量の難民が流れ込んだ。イギリスは出入国管理を厳密化してこれに対抗。国共の争いに決着がついたのは1949年。毛沢東率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立した。

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名門ホテル・ペニンシュラは日本の占領時代には東亜ホテルと改称され、日本軍の総督府が置かれた

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1897年、ヴィクトリア女王の即位60周年を記念して建てられた。日本統治時代には軍用資材として鋳潰される予定だったが、その前に日本軍が降伏し、難を逃れたという

戦後の発展と返還への道のり

中華人民共和国は香港の主権回復は求めなかった。これは香港を餌にイギリスの動きを封じ、香港を西側世界への窓口とするためだったといわれる。中華人民共和国の成立後も、共産党政権を嫌った難民が香港に大量流入した。なかには、上海など大都市の資本家や高い技術を持つ職人もいた。貧しい難民たちが提供する安い労働力は、香港の工業力をアップさせ、経済の発展に大きく寄与したといわれている。さらに、1950〜53年の朝鮮戦争、1960〜70年代のベトナム戦争、カンボジア内戦などが特需をもたらし、1980〜90年代は韓国、台湾、シンガポールとともにアジアのNIEsと呼ばれるほどになった。

一方、1970年代に入ると、新界租借期限が満了するのをにらんで、中国とイギリスのやりとりが活発化してくる。当時のイギリス首相のサッチャーは強硬路線をとり、香港を引き続きイギリスの支配下に置くことを主張。そのため、交渉は難航。結 局、1984年に中英共同声明が出され、香港は1997年7月1日に中国に一括返還されることが決定した。

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1972年建造のジャーディン・ハウスは香港経済発展の象徴となった

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1997年7月1日、香港返還の瞬間を迎えて盛り上がる中環のナイトスポット、ランカイフォン

一国二制度下での香港

中英共同声明以来、返還後の中国支配に不安を覚える人が香港からカナダやオーストラリアに脱出し始めた。この動きは1989年の天安門事件で拍車がかかった。中国は返還後50年間は香港の現状を維持すると約束していたため、イギリス側は香港の民主化を強引に進めようと計画。直接選挙の導入や大規模な経済政策などを図ったため、中国側とは緊張状態が続いた。

1997年、香港は中国に返還され、特別行政区となった。中国は返還前の約束どおり、一国二制度をとったが、一方で言論統制や選挙への介入も行なったため、市民のデモも頻発した。

返還前後の大量移民と1997年からのアジア通貨危機で香港の経済は冷え込んだ。一時的に持ち直すものの、2003年に発生したSARS(新型肺炎)では観光客が激減し、大打撃を受ける。だが、これが終息すると、中国本土から香港への個人旅行が解禁されたことも相まって、観光客が激増。さらに、中国の経済成長とともに、香港経済も大きく飛躍した。現在は、ロンドン、ニューヨークと並ぶ世界三大金融センターとしての地位を確立し、今後のますますの発展が期待されている。

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返還直後の1998年に開港した香港国際空港

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「スカイ100」がある環球貿易広場は2011年建造

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トラベルデイズ 香港 マカオ

  • 発売日:2012年07月02日

筆者 : Fish & Tips

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ 香港 マカオ」です。掲載している情報は、2016年9月〜2017年1月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。