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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

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フィレンツェ メディチ家とともに開花した歴史

王ではなく、商人たちが支配したフィレンツェ。ルネサンスが花開き、富と文化の中心として輝く一方で、絶え間ない戦争と熾烈な支配権争いがつきまとった。

花の都の起源

古代ローマ以前、フィレンツェはイタリア半島の先住民族であるエトルリア人が住む街だった。紀元前1世紀、共和政ローマの執政官だったカエサルが定めた法により、この街はローマ植民市として退役軍人たちにより築かれ、街の名も花の女神に由来するフロレンティアと命名。現在のレプッブリカ広場は、当時の政治・経済の中心で、周囲には神殿や市場などが建ち並んでいた。紀元2世紀にローマと北イタリアとを結ぶカッシア街道が敷かれると、街道の要所であったフロレンティアの人口は1万人近くまで増加する。6世紀になると東ローマ帝国とゴート族との戦乱などで街は破壊され、人口も約10分の1にまで減少したといわれるが、8〜9世紀末のカロリング王朝時に再建される。さらに10世紀のトスカーナ辺境伯の時代に領主の拠点がルッカからフィレンツェに移され、街の規模は拡大していった。いくつもの修道院や教会なども次々と建てられ、11世紀にはサン・ジョヴァンニ洗礼堂に代表されるフィレンツェ・ロマネスク様式が花開く。また1077年には、トスカーナ辺境伯の最後の女伯マチルダが所有するカノッサ城で、有名な「カノッサの屈辱」が起こっている。1125年、教皇派だったフィレンツェは敵対する皇帝軍を破り、コムーネ(自治都市)を宣言した。

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代表的なフィレンツェ・ロマネスク様式のサン・ジョヴァンニ洗礼堂

長引く紛争と商業の繁栄

フィレンツェでは中世から毛織物産業が盛んだったことが知られているが、コムーネとなった頃にはすでに街の重要産業となっており、アルテという同業組合を結成して有力商人たちが政治の実権を握っていく。同時に内戦も絶えず、ピサやシエナなどの近隣都市との抗争に加え、教皇派(グエルフィ)と皇帝派(ギベッリーニ)との闘争が市内でも繰り広げられていた。13世紀は、貴族や商人、一般市民までをも巻き込んで両派による血なまぐさい争いに明け暮れるが、後半は教皇派が一応の勝利を収めて政権を握る。だが、教皇派もまた分裂し、自治権の強化を図る富裕商人や市民層からなる「白派」と、教皇との関係を強めようとする封建貴族中心の「黒派」とに分かれて争いを繰り返すありさまだった。フィレンツェ出身で、イタリア最大の詩人ダンテは白派に属して活動していたが、1302年、政権を奪った黒派によってフィレンツェを追放され、二度と故郷に戻ることはなかった。こうした争乱のさなかにあってもフィレンツェの経済は成長を続け、とくに銀行業の発展はめざましかった。ヨーロッパ各地に支店を持ち、教皇をはじめ各国の王侯貴族に融資を行なうほどだったという。フィレンツェで鋳造されたフィオリナ金貨は当時最も信用できる金貨として西ヨーロッパ中で流通した。

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13世紀に議会の執務館として建造されたというヴェッキオ宮

フィレンツェの黄金時代

1348年、ヨーロッパを襲ったペストはフィレンツェにも及び、人口の半数近くが死亡した。また台頭していた新興勢力と教皇派の争いに加え、フランスとイギリスの百年戦争のあおりも受けて景気が後退するなか、1378年に労働者や手工業者によるチョンピの乱が起こる。これは都市労働者による初の暴動といわれるが、後ろで糸を引いていたのはサルヴェストロ・デ・メディチなどの新興勢力であった。結局はこの暴動も失敗に終わり、サルヴェストロはじめ多くの加担者が追放される。だが、サルヴェストロの一族でローマで銀行業を営んでいたメディチ家のジョヴァンニがフィレンツェに拠点を移したことから、時代は大きく変わっていった。ローマで教皇庁とつながりのあったジョヴァンニは1410年に教皇庁会計院の財務管理を任され巨額の利益を得る。ジョヴァンニの息子コジモは政治にも参加し、一時は政敵により追放の憂き目にあうも反メディチ勢の一掃に成功し、実質的なフィレンツェの支配者となった。1451年にコジモがミラノと結んだ同盟によって約半世紀の間、イタリア半島に平和な時代が訪れることになった。ルネサンスの花はこの時代に咲き始める。コジモは建築家のブルネレスキや彫刻家のドナテッロらを庇護し、私的サークル「プラトン・アカデミー」を創設、彼が傾倒した新プラトン主義はルネサンスの芸術家たちに大きな影響を与えた。コジモの死去から5年後の1469年、孫のロレンツォが家督を継ぐ。彼は政治や外交に優れた能力を発揮、また芸術家のパトロンとしても活躍し、リッピ、ボッティチェッリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、人文学者のミランドラなどを庇護している。

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シニョリーア広場にあるコジモ1世の騎馬像

メディチ家の衰退と街の変容

「豪華王」と呼ばれたロレンツォ・デ・メディチが1492年に亡くなると、跡を継いだ長男ピエロの失態により、わずか2年後にメディチ家はフィレンツェから追放されてしまう。代わって実権を握ったのはサン・マルコ修道院長のサヴォナローラだった。彼は退廃的なフィレンツェ人の生活を厳しく糾弾し、1497年の謝肉祭にはシニョリーア広場で贅沢品や官能的な絵画や書物などを焼き払った。だが翌年には今度は自分が異端の罪をかぶせられ、同じ場所で処刑される。その後、フィレンツェ共和国の元首となったソデリーニ長官のもとで、のちに『君主論』を著すことになるマキャヴェッリが活躍した。ミケランジェロの『ダヴィデ像』はこの時代のシンボルとして制作された。だが1512年、教皇ユリウス2世の計略によりメディチ家がフィレンツェに復権すると、マキャヴェッリたち共和制勢力は失脚する。メディチ家は3人の教皇を出したが、2人目の教皇クレメンス7世の失策によりスペイン王カール5世の軍によるローマ略奪が起こると、再びフィレンツェからメディチ家が追放された。だが3年後の1530年に復帰して君主となる。1569年、一族のコジモ1世がトスカーナ大公となり、フィレンツェは大公国の首都として商都から宮廷文化都市へと変わっていく。ちょうどルネサンスからバロックに移ろうとしていた時代。だが1737年にメディチ家の跡継ぎが絶えると支配権はオーストリアのハプスブルク家に移り、1860年にフィレンツェはイタリア王国に併合された。

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中世からフィレンツェの中心だったシニョリーア広場

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ イタリア」です。掲載している情報は、2014年10月〜2015年1月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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