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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

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シンガポールの歴史、急激な経済的成長とラッフルズ

建国以来、世界的にみても急激な経済的成長を遂げたシンガポール。多民族が集うガーデンシティは、どのようにしてできあがったのだろうか。

建国の父と獅子の街の伝説

今や世界有数の経済の中枢となったシンガポール。その歩みは、イギリス東インド会社の書記官トマス・スタンフォード・ラッフルズの上陸とともに始まった。18世紀、東南アジアの海域を制していたのは日本との貿易も独占していたオランダだった。一方、イギリスはインド統治も落ち着き、東南アジアへとその手を伸ばし始めていた。そのなかで、マラッカ海峡の制海権を手に入れるための新しい拠点として選ばれたのが、海峡の入口に位置し、天然の良港であったシンガポールの地だった。地理的な優位はもちろんだが、この地に残るロマンあふれる古都の伝説もラッフルズをひきつけた理由のひとつだった。マレー半島南部に栄えたマラッカ王国の記録『マレー王統記(スジャラ・ムラユ)』によると、ある日、スマトラ島にあるパレンバンから訪れたシュリーヴィジャヤの王子、サン・ニラ・ウタマが、川辺で不思議な動物(獅子)に出会った。王子は、河口に都市を築きサンスクリット語で獅子の街を意味する「シンガプーラ」と名付けた。都市は王都として栄え、その繁栄はマラッカへ王が移るまで続いたという。マレー人にブキ・ラランガン(=禁断の丘)と呼ばれ、王家の居住地だったとされるフォート・カニング・ヒルからは、実際に金の装飾品などが発掘されており、王の墓所とされている廟もある。ラッフルズ上陸当時は、城壁や砦跡などの遺構も残っていたという。発掘品はシンガポール国立博物館などで見ることができる

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フォート・カニング・パークは、第二次世界大戦の遺跡も残るさまざまな歴史の舞台となった地だ

シンガプーラ以前のシンガポールは?

最古の記録として残るのは、3世紀に東南アジアへと派遣された康泰の『呉時外国伝』。「蒲羅中(半島の先端の意)」という地名がこの地だという。その後は、14世紀に活躍した中国の航海家、汪大渊の『島夷志略』や、ジャワ島を支配したマジャパヒト王国の記録に海の街トマセックの名で現れる。重要な港として栄えていた時代もあるが、ラッフルズ上陸当時は海賊まがいの住人しかいない、荒れ果てた漁村だったという。

トマス・スタンフォード・ラッフルズ (Thomas Stamford Raffles) 1781〜1826

父親の商船の上で生まれた。14歳で貧しさのため退学を余儀なくされ、埋め合わせるように生涯勉学や研究に励んだという。東インド会社では、19歳で若くして派遣要員に抜擢されペナンへ赴いたのを皮切りに、アジアでの重職を歴任。アジア圏の文化、事物に強い関心を持ち続け、堪能なマレー語は仕事でも大きな助けとなり、シンガポールの地を知ったのもマレーの伝承からだった。実地での調査も精力的に行ない、ボロブドゥールを発見し、世界一大きな花ラフレシアにも名を残している。

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シンガポール上陸の地とされる場所に立つラッフルズ像

ラッフルズの残したもの

1819年1月29日、シンガポール島に上陸したラッフルズはこの地の戦略的価値を確信し、ジョホール王国の代官と商館を築くための予備協定を結ぶ。続いて2月6日には、王国の後継者争いにも乗じて、国王にも権利を認めさせた。関税のかからない自由港とすることなど基本的な計画を設定して、ラッフルズ自身は現地を離れるが、街はめざましい発展を遂げていく。再び島を訪れた1822年には、200人に満たなかった住人が1万人近くとなり、港には多くの船舶が停泊していたという。ラッフルズが民族間の争いを防ぐために移民を人種ごとに住み分けさせた区分けは、チャイナタウンやアラブ人街として残り、聖アンドリュース教会も再建されたものだが、ラッフルズが命じた場所に建っている。

アイデンティティの萌芽

ラッフルズが去ったあとも、シンガポールの発展は続く。1826年にはペナン、マラッカとともに海峡植民地になり、イギリス、インド、中国を結ぶ三角貿易の中継点として栄えるとともに、需要の伸びていた缶詰に使う錫や、天然ゴムの輸出港としても大きな役割を果たした。1869年のスエズ運河の開通以降は多くの船舶がマレー海峡を通過するようになり、ますますその重要性は増していった。この発展を可能にしたのが、苦力(クーリー)と呼ばれていた労働者や、貿易商、行政官吏として働いた中国やインドからの移民だ。20世紀初頭には人口は20万人に達する。とくに中国からの移入が多く、7割が中国系、マレー系が2割、インド系が1割と、華僑が中心となる現在の人口構成が、この当時すでにできあがっていた。マレー語や英語を使いこなし社会的に高い地位を得た中国人プラナカンや、専門的な職能で重要な役割を持ったインド人には、徐々にこの地への帰属意識が高まっていった。

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会館と呼ばれる華僑のコミュニティの拠点。写真はチャイナタウンに残る客家の拠点、應和館

暗い昭南島時代と独立の気運

第二次世界大戦中、1942年から3年半は日本軍による占領が続いた。イギリス軍に勝利した日本軍は、昭南島と名付け統治下に置くと、日中戦争に対する抗日運動を行なっていたとして中国人を弾圧した。とくに強い衝撃を与えたのが「華僑虐殺」といわれる事件で、各地に中国人を集め、抗日の傾向が疑われる者を選別、銃殺したという。日本軍のマレー人、インド人優遇もあり、軍政に対抗する運動は中国人が中心となった。その中核が、中国共産党から支援を受けるマラヤ共産党で、戦後も独立運動の母体となる。長く統治者として君臨していたイギリス軍の敗北と、続く日本軍による圧政は、シンガポールの中国人に、自分たちの国家をつくり出す強い意志を持たせることになった。

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戦争記念公園に立つ日本占領時の戦没者を慰霊する石塔

人民行動党の独裁が始まる

日本軍からの解放後、イギリス支配が復活したが、もはやイギリスには戦前ほどの支配力はなかった。1957年には同じイギリス領のマラヤ連邦が独立を果たし、翌年シンガポールも自治権を獲得。最初の総選挙で他を圧倒し第一党となったのが、英国留学帰りのリー・クアンユー率いる人民行動党だった。圧勝の理由として、他の政党が知識人中心だったのに対して、中国人大衆に強い影響力を持っていた共産系グループの協力を得られたことが挙げられる。政権をとった人民行動党がまず取り組んだのが、ナショナルアイデンティティの確立だった。マラヤ連邦との合併によるイギリスからの独立をめざし、マレー語を国語とし、マレー化政策を行なった。これに反感を持つ共産系グループは脱党し、熾烈な政争が行なわれたが、結果として勝利した人民行動党の安定した一党独裁が始まることになった。

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ シンガポール」です。掲載している情報は、2015年4月〜8月にかけての取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。