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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

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ミラノの歴史 衰退と繁栄を繰り返し進化

モードとデザインの街であり、イタリア経済を牽引する大都市。紀元前から続く誇り高き歴史と芸術が、イタリアで最も現代的な街の礎となった。

異民族たちとの度重なる攻防戦

イタリア半島の付け根に広がる肥沃な大地、ロンバルディア平原。その中心部に位置するミラノは交通の要衝で、古代からさまざまな民族が住みつき、異民族との攻防戦も生じた。街の起源は紀元前5世紀にさかのぼり、イタリアの先住民族であるエトルリア人が暮らしていたとされる。紀元前4世紀には北方の民族、ガリア人がアルプスを越えて来襲し、街を侵略した。
 
紀元前222年には、南で勢力を拡大するローマ人に征服され、その支配のもと、街の規模を拡大した。当時は「メディオラヌム(平原の真ん中)」と呼ばれており、これが「ミラノ」の名の起源になったという。 

ミラノが都市として栄え始めるのは3世紀のことだ。395年にローマ帝国が東西に分裂し、ミラノは西ローマ帝国の主要都市となり、一時期は首都も置かれた。313年にはコンスタンティヌス帝がこの地で、キリスト教の信仰を認める「ミラノ勅令」を発布し、宗教のうえでも重要性を帯びた。そんななか374年に、キリスト教の権威の向上に努めたアンブロージョがミラノ司教になる。司教は時の皇帝テオドシウスにも大きな影響力を持ち、392年、キリスト教は同皇帝によってローマ帝国の国教に定められた。アンブロージョは没後、ミラノの守護聖人となり、街の南西部にあるサンタンブロージョ教会に祀られている。

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サンタンブロージョ教会はミラノでも最古の教会のひとつ

自治都市からミラノ公国へ

その後も異民族の侵入は続いた。5世紀にはゴート族、6世紀にはロンゴバルド族、9世紀にはフランク族の侵略に屈した。しかし、10世紀になると自治意識が高まりをみせ、街の貴族を中心に自衛のための組織が生まれ、それが発展して11世紀にコムーネ(自治都市)となった。 

当時、アルプスの向こうでは神聖ローマ帝国が最盛期を迎え、ミラノの領土を狙っていた。これに対抗するため、ミラノは近隣の諸都市と「ロンバルディア同盟」を結成。1176年、同盟軍はレニャーノの戦いで神聖ローマ帝国軍を破り、ミラノの自治はゆるぎなきものとなった。 13世紀末には、ヴィスコンティ家が街の権力を握る。同家の統治のもと、街は織物業などで発展し、領土を拡大していった。14世紀末、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの時代には、遠くヴェネト地方やトスカーナ地方の一部も支配下に収める。さらに公爵位を得て、ミラノ公国を成立。街のシンボルであるドゥオモの建造が始まったのは、このジャン・ガレアッツォの治世下だった。 

その後、ヴィスコンティ家は跡継ぎをなくして没落する。最後の当主、フィリッポ・マリアの死後、1447年に有志のミラノ貴族たちによって共和国が樹立されるが、この試みはわずか3年で崩壊した。

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ドゥオモは14世紀末に着工

スフォルツァ家のもと繁栄

1450年、ヴィスコンティ家と姻戚関係にあったスフォルツァ家のフランチェスコがミラノ公国の領主となり、同家による専制が始まる。この時代、ミラノは黄金期を迎える。なかでも1495〜99年にミラノ公を務めたルドヴィコ・イル・モーロの功績が大きい。フランチェスコの息子であったイル・モーロは芸術を庇護し、フェラーラのエステ家出身の妻ベアトリーチェとともに、北イタリア屈指の宮廷サロンを築き、ロンバルディア・ルネサンスを開花させた。 

イル・モーロがミラノに呼び寄せた芸術家には、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ドナート・ブラマンテらがいる。ともにルネサンス期の傑出した芸術家、建築家であるダ・ヴィンチとブラマンテは、スフォルツェスコ城の大改築に携わった。さらに、北イタリア・ルネサンスの傑作であるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会のクーポラと回廊をブラマンテが増築した時期、同じ教会の修道院食堂でダ・ヴィンチが『最後の晩餐』の壁画に取り組んでいた。また、ブレラ美術館にある傑作絵画の多くも、この時代に誕生したものだ。

再び外国の支配下に

16世紀前半にはフランスとの攻防戦が続き、1535年にスフォルツァ家の最後の当主が没する。その後、ミラノは1535〜1706年の長きにわたり、スペインの支配下に入る。1706〜97年にはオーストリアの支配を受けた。この約250年の間、ミラノの発展は停滞。その状況を変える契機となったのが、ヨーロッパ諸国の版図を塗り変えた稀代の軍人、ナポレオンの登場だった。

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Sforza Castle, by curtis_ovid_poe, CC BY-SA

スフォルツェスコ城はミラノの黄金期に大改築された

自治の奪還とイタリア統一

1796年、ナポレオンはミラノに入城。イタリア北部と中部へのさらなる版図の拡大を狙うナポレオンは、ミラノに軍事基地を設け、とくに被服の供給の場とした。自治都市時代から織物業が盛んだったこともあり、この時期に繊維産業の強固な礎が築かれた。それが、現在のモードの街を支える基盤となった。 

ナポレオン入城後、1796〜1814年にフランスの支配を受けるが、その後、ハプスブルク家が統治するスペイン、オーストリアの支配下に入る。しかし、外国の統治は長く続かなかった。ナポレオンのイタリア侵攻は、ローマ帝国の分裂以来、都市国家の集合体になっていたイタリア全土に愛国心と独立の機運をもたらした。1848年、ミラノでも激しい独立運動が起こり、市民の5日間の蜂起によってオーストリア軍を撃破し、自治を取り戻す。イタリア全土の統一運動にもミラノは貢献し、イタリア王国が成立した1861年、王国に統合された。

現代のイタリアを牽引する街

イタリア統一後、第二次世界大戦時にはファシズムの脅威にさらされたが、戦後の復興は比較的早かった。20世紀後半からは、モード、デザイン、出版、金融、商業の中心地としてイタリアの産業と経済を担っている。見本市や展覧会の充実ぶりでも群を抜き、今も街のどこかで新しい美と活力が生まれ、ミラノは進化を続けている。

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モード発信基地となる、イタリアで最もおしゃれな街

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ イタリア」です。掲載している情報は、2014年10月〜2015年1月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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