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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

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グアム旅行までに確認!紀元前2000年からアメリカ統治まで

きらめく南洋に浮かぶ美しい島グアムは、先史時代と西洋の侵略、その後、太平洋戦争の破壊を経て、再びたくましくも穏やかな平和に包まれている。

グアムの歴史

石造物が物語るチャモロ時代

グアムの歴史は古く、スペインの侵略よりはるか昔、紀元前2000年頃にさかのぼる。マレーシア、インドネシア、フィリピンなどの東南アジアから海を渡ってきたチャモロ人と呼ばれる海洋民族がグアム島の先住民で、三角帆のカヌーを操り島々を行き来し、米を作っていたという。西暦800年頃には人口も10万人を超え、秩序ある社会を形成し、高い文化を築いていた。彼らの残したラッテ・ストーンと呼ばれる石造物に、その文化の痕跡を見ることができるが、謎は多い。このラッテ・ストーンはマリアナ諸島全域にみられ、チャモロの文化が広がっていたことを物語る。ちなみにチャモロとは、“高貴”という意味だそうで、マゼランが発見して西洋人たちが入植するまで、恵まれた自然のなかでのどかな生活を送っていたという。

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お墓説、家の土台説など謎はまだ解明中

マゼラン隊がグアムを「発見」

世界航海に出たマゼランによってグアム島が発見されたのは1521年。当初、探検隊は「三角帆の島々」と名付けていた。しかし島民が水や食糧などを提供した代わりに、船から物資やボートまで持ち出したとマゼランが激怒。島民にはいわゆる物々交換であったものが、文化の違いから、「泥棒諸島」の汚名を着せられてしまうことになる。

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by fotolia - © Andrey Kuzmin

グアム島を発見した翌年に世界一周を成し遂げた

スペイン統治時代の始まり

マゼランの発見から44年後の1565年、スペイン王が送り出したレガスピ率いる第2の探検隊が再び上陸。このときグアムにおいて、マリアナ諸島のスペイン領有宣言をしたことから、その後多くのスペイン人が入植することになる。グアムはフィリピンとメキシコを結ぶ貿易の拠点となり、以後333年にも及ぶ長いスペインによる統治時代が始まるのだ。

サン・ヴィトレス神父の来島

1668年にスペイン人宣教師、サン・ヴィトレス神父が来島し、カトリックの布教活動を始めた。彼はグアムを「泥棒諸島」に代えて、宣教団のスポンサーであったマリアナ母后の名を借り「マリアナ諸島」と命名する。順調に布教活動を進めていったかに思われたが、しだいに島民がカトリックの厳しい戒律と、自分たちの文化が失われることに反発。デマや暴力が続発し、宣教師が暗殺されるなど混乱を極めた。そんななか、サン・ヴィトレス神父は、タモン湾近くに住む酋長の娘に、彼女の父の反対を押し切って洗礼を行なったことで殺害されてしまうのだった。

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スペイン統治時代の名残のあるスペイン広場

戦争による島の荒廃

サン・ヴィトレス神父の殺害で、島民とスペイン軍の間の混乱はさらに悪化していく。村の家屋やカヌーを焼き払ったり、またそれに報復するチャモロ人がスペイン軍を奇襲したり、教会を焼き払うなど、島のいたるところで争いは続いた。しかし、チャモロ人がこん棒や、槍といった武器のほか、スリング・ストーンと呼ばれる石弾で戦うのに対し、スペイン軍は鎧に身を固め、銃を持っていたことから、力の差は歴然であった。徹底抗戦の姿勢を崩さないチャモロ人も、しだいに追い込まれ、ついに1695年、最後の勢力が降伏することで、20年以上も続いた戦いはようやく幕を下ろした。この戦いで島は荒れ果て、男たちの多くが戦死し、さらに西洋人がもたらした天然痘などの疫病によって、10万人以上いた先住民は2000人にまで激減したといわれる。そのため、多くのマリアナ諸島民がグアムに強制移住させられ、それらの島々は以後100年以上無人化してしまう。

スペイン統治下の悲劇

長きにわたる戦争のあと、島は落ち着きを取り戻し、スペイン統治による時代が続いた。現在、グアムの人口の大半がキリスト教徒だということを思えば、グアムという島の歩んできた複雑な歴史や背景をうかがい知ることができる。スペインの統治は、グアムをはじめ、マリアナ諸島に宗教だけでなく、西洋の文化を色濃く根付かせた。教育や芸術、農業や建築技術といったものなどももたらしたが、島民とスペイン人の交流にいたっては、ままならないことも多かった。そんななかで、有名な悲劇も生まれている。グアムを訪れるカップルの多くが立ち寄るといわれる名所、恋人岬に伝わるエピソードがそれだ。スペイン人の男性とチャモロ人の女性との間に生まれた美しい娘が、チャモロの若者と将来を誓い合っていたが、娘の父親は、スペイン人将校との結婚話を進めていた。それに反発した娘は、婚礼の夜にチャモロの若者と駆け落ちし、恋人岬にまで逃れるが、追い詰められて、ふたりはお互いの髪を結び、海へと身を投げたという。そのスペイン統治も、1898年に勃発した米西戦争にスペインが大敗し、終わりを告げることになる。それ以後、グアムはアメリカの統治下に入った。

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悲劇の場所、恋人岬も今では永遠の愛を誓う名所に

スペインからアメリカの統治へ

19世紀の終わり頃、それまで強大な力を誇っていたスペイン帝国にかげりが見えはじめると、植民地の多くは独立運動を繰り広げた。多くの植民地を失ったスペインは、急激に衰退し、代わってアメリカが世界に台頭してきた。米西戦争のきっかけは、1898年にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン号が爆発、沈没したことに起因する。当時、アメリカ国内では打倒スペインとアメリカへの愛国心をあおる風潮が高まっていた。そのなかでアメリカはこの事故をスペイン人のしわざと主張し、戦争を仕掛けた。すでに国力を失っていたスペインはあっけなくアメリカに敗れ、グアムはアメリカに占領されてしまった。アメリカはグアムを自分たちの船舶の補給庫として重要視したものの、島民の生活には無関心だった。おかげである程度の自由が得られ、島の外へも自由に行き来することができるようになった。ただ、チャモロ人たちをアメリカ国民として認めず、市民権や議会への参政権を与えることもなかった。

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アサン地区にある太平洋戦争国立歴史公園

日本軍占領時代の「大宮島」

1941年12月8日、日本軍はマリアナ諸島唯一のアメリカ領であったグアムに空爆を開始、10日には上陸してグアムを占領した。ここから2年7カ月の壮絶な日本統治時代が始まるのである。グアムを「大宮島(おおみやじま)」、ハガニアを「明石(あかし)」と改称するなど、日本語や日本の習慣も強制、さらに日本軍のために塹壕、砲台を造らせるなど重労働を強いた。戦況が悪化すると、米兵をかくまっていると疑われた島民が拷問を受けたり、虐殺された。この戦争で、およそ700人のチャモロ人の命が奪われたという。島のジャングルのなか、美しく白い海岸、ホテルの裏手などに、今でも無数に残る砲台や射撃用のトーチカが、静かに悲惨な戦争の傷跡を物語っている。

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公園や海岸にポツンとたたずむトーチカ

再びアメリカの自治領へ

太平洋戦争末期の1944年7月21日、アメリカ軍はグアム奪還のために再上陸を開始、8月11日に占領を果たした。グアムは、再びアメリカ領になり、日本の統治から解放されることになった。グアムに平和な日々が戻り、自由の女神像の複製が贈られた1950年、ようやく島民にアメリカの市民権が与えられた。そして1960年代後半になると、日本からの観光客がグアムを訪れるようになる。ただし、今なおグアムはアメリカの準州であり、島民の大統領選への投票権は認められていない。そのため、先住民の間では、自決権を求める運動も始まっているという。観光客から見える、のどかで平和な楽園としてのグアムに、あくまでアメリカの軍事の前線基地として存在するグアムという、もうひとつの顔があることを忘れてはならない。

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平和慰霊記念公園内の戦没者を慰霊する慰霊塔

グアムの歴史年表

紀元前2000年 グアムに人が住み着いたのは紀元前2000年頃。東南アジアから海を渡ってきた古代チャモ口人がグアム最初の住人だ。
紀元前1200年 チャモロ人は秩序ある社会と高い文化を築いていた。紀元前1200年頃のものといわれるラッテ・ストーンと呼ばれる石造物が今も残る。
1521年 マゼランによってグアム島が発見される。1565年、スペインによって領有宣言がなされ、以降333年にわたるスペイン統治の時代に。
1668年 宣教師が訪れ、布教活動を展開。しかしキリスト教は島民になじまず、逆に争いの種になってしまい島は荒廃する。
1695年 戦争や西洋人によってもたらされた疫病などにより10万人以上いたといわれるチャモ口人が約2000人になってしまう。
1898年 米西戦争ではアメリカ海軍に占領され、スペインが敗れた後にアメリカへと譲渡される。
1941年 太平洋戦争勃発とともに日本軍が侵攻。1944年にアメリカ軍に奪還されるまで日本統治領となり、大宮島と名を改めた。
1950年 第二次世界大戦後はアメリカの信託統治となり、グアムは自治権のあるアメリカ準州としてアメリカ合衆国領土の一部となる。
1962年 グアム市民にアメリカ市民権が与えられる。しかしグアムの人々には大統領選挙や連邦議会議員選挙などへの参政権は認められていない。

チャモロ文化

大海原のなか、豊かな自然に育まれ守られてきた、チャモロの強固な団結力。その陽気さと勇敢さで、波乱の歴史を生き延びた背景にあるもの。

自然とともに生きた海洋民族

かつて、マリアナ諸島を大きな三角帆のカヌーで、島々を飛ぶように移動していたと伝えられるチャモロ人たち。先史時代から、豊かな自然のなかで、酋長制度のもとに秩序ある社会を形成していたという。西洋人やフィリピン人らとの混血が進んだ今、純粋なチャモロ人は消滅しているが、独特の大家族主義とともに、伝統を守り続けている。また、母系社会による強い団結力が特徴で、現在でも女性を中心に、一族が協力しあいながら生きているという。

伝統的な風習や漁法

美しい海に囲まれたグアムでは、漁は生活に欠かせないものだった。彼らの漁で伝統的なのは追い込み漁だ。浅瀬に入り、網を手に魚を追い込んでいく。これはおもに女性の仕事なのだそうだ。ほかに、タラザと呼ばれる投網漁、仕掛けた網に魚が集まるのを待つテッケン、素潜りでモリで突く、などさまざまだが、いずれも数人で漁に出ると、獲れた数が多くても少なくても、公平に分け合う。それがチャモロの助け合う精神なのだ。また、彼らが好むビンロウの木の実をキンマの葉で巻き、それをかじるという、ユニークな嗜好品がある。実の汁で口の中が真っ赤に変色し、心地よくしびれる。機会があれば、ちょっと試してみてはどうだろう。

受け継がれる祭事「フィエスタ」

西洋人の入植とともにキリスト教が伝わる以前、チャモロの人々は土着の守護神を信仰していたという。現在では99%がキリスト教徒だが、「フィエスタ」と呼ばれる守護神を称える祭りは、今でもタロフォフォ、アガット、イナラハン、マンギラオなどそれぞれの村で年に1回開催されている。親戚一同が島のあちこちから駆けつけ、多いときは100人を超えることもあるという。毎月どこかの村でこのフィエスタが行なわれており、そのつど各家庭で自慢の料理やお酒、新鮮な魚を持ち寄り、祭りを楽しむのだそうだ。また、毎週水曜日の夜に開催されるチャモロ・ヴィレッジのナイトマーケットでは現地の生活や文化に気軽に触れることができる。民芸品探しやチャモロ料理を味わいながら、当時の暮らしぶりに思いを馳せたい。

陽気でおおらかなチャモロ人

フィエスタには、じつは観光客でも参加することができる。ただし、観光化されているわけではないので、もしその場に遭遇したら、手みやげを持って、主催者に挨拶をし、参加したい旨を告げてみるとよい。おおらかなチャモロの人たちは、きっと大歓迎してくれるはずだ。ヤシ酒を酌み交わせば、楽しい交流が生まれるに違いない。

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奥付:
この記事の出展元は「トラベルデイズ グアム」です。掲載している情報は、2014年11月〜2015年3月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。  最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。